宛名と日付の関係のこと(古文書)

宛名と日付の位置と格

前田土佐守家資料館の企画展「こもんじょ入門」で、書状の末尾、日付と宛名の相対位置で、相手が格上か格下かがわかるようになっていると書かれていた。

展示されていた書状のパターンはAのようなもので、藩主から藩士にあてて書かれたもの。

日付と宛名の位置関係が、だいたいどういう具合になるのか。特に、格上の相手に送るときはどういう書き方になるのか、というようなことが気になった。

たまたま、石川県歴史博物館の常設展示を見に行ったら、藩主から百姓にあてて書かれた書状が展示されていた。これが、衝撃だった。 百姓中宛が二通あるが、どちらも日付は上の端!宛名は紙の一番下に書いてある(笑)

Bのようなかんじで、これ以上は差をつけられないという位置関係になっている。

時間があったので、歴史博物館のとなりにある加賀本多家博物館にも寄ってみた。そこには、格上の相手にあてた書状が何通か展示されていた。

その一通は加賀藩前田利長から本多正信、正純への書状で、 慶長19年2月18日  正信は将軍徳川秀忠付きの年寄り  正純は大御所徳川家康付きの年寄り であり、宛先の方が身分が上(たぶん)の例になっている。  書状では、本文より下がっているが、日付と宛名が同じ高さで書かれている!  宛先の二人の名前は日付と同じ位置で同列

図Cのような塩梅。

日付と宛名の位置関係のパターン例

あとの疑問は、宛先が、将軍本人とかだとどうなるのだろうか。 公家、朝廷の場合はどうなのだろうか。

想像としては、紙の上端にくっつけて名前を書くとかだけど、実物は見ていない。 なかなか見つからないのだ

(2023/05/23記)

金沢城内の辰巳用水はどこを流れていたのかを調べた

辰巳用水は、金沢城・二ノ丸に水を運ぶために作られたものです。もちろん、金沢市内にも水を供給しています。

城内の辰巳用水の水路について書かれた資料を探したのでここにまとめておきます。 まったく完全ではないと思います。

絵図

以下のような絵図がある(らしい)。

二ノ丸の内

金沢城二ノ御丸三歩碁之図」石川県立図書館

金沢城 二ノ丸情報館の外にある解説版「二ノ丸御殿」の絵図「江戸時代後期の二ノ丸御殿」による。極楽橋から二ノ丸御殿を流れる水路/小川?の様子が描かれている。

この石川県立図書館の絵図はSHOSHOでも見られる。

https://www.library.pref.ishikawa.lg.jp/shosho/detail/orgn/B002441051#canvasId=p2

この絵図の左上のあたりに「極楽橋」があり、道を挟んで桝の絵があってそこが辰巳用水の出水場所。

御城中壱分碁絵図<部分> 横山隆明氏蔵

金沢城二ノ丸情報館の館内中央に展示されている二ノ丸の絵図。

「壱分」と「三歩」は縮尺の違いかなと思うが、詳細はわからない。

金沢城二の丸絵図 石川県立歴史博物館所蔵

https://www.ishikawa-rekihaku.jp/collection/detail.php?cd=GI00213

絵図に細い赤い線が見える。これは成巽閣の絵図の辰巳用水の水路と同じように見えるが特に説明もないので、同じかどうかはわからない。

金沢城内(辰巳用水の水路の記載のあるもの)

金沢城絵図建造物水路記入 」成巽閣蔵

ただし、この名称は、参考にした書籍(下記「加賀辰巳用水」)固有のものかもしれない。

金沢城図 金沢市立玉川図書館蔵

金沢城 南門跡の近くの解説版「辰巳用水」中の「城内の辰巳用水のルート」による

御城中壱分碁絵図 横山家蔵

金沢城 南門跡にある別の解説版では、この絵図の南御門のあたりを抜き出してある。

そこには辰巳用水の線と同じような線が描かれているが、解説文には「園路上に描かれているラインは、かつての南門の跡を表現したものです。」とある。用水とは違うのかもしれない。

資料

探し当たった順番に書く。

1) 書籍「兼六園全史」

タイトル:兼六園全史
著者:   兼六園全史編纂委員会, 石川県公園事務所 編
著者標目:石川県公園事務所
出版社;兼六園観光協会
出版年月:1976/12

この本はタイトル通り、兼六園について網羅的に書かれた本。

最初に、成巽閣の絵図について知ったのはこの本で、「第三編 辰巳用水/第二章 辰巳用水/第五節 城内への導水」に、2)の論文「金沢城址の発掘 」が引用されていた。

また、この本のp153にある「第52図 城内の導水管修理の図」には、石川門から二ノ丸御殿までの用水の流れの図が簡潔に記載されている。だから、用水の経路についてはこの本を見た段階で分かったはずだが、よく覚えていない。

この本は、石川県立図書館にあった。

2) 金沢大学の発掘

タイトル:金沢城址の発掘 
著者: 井上鋭夫
収録誌:金沢大学法文学部論集 史学編 16
出版者:金沢大学法文学部
出版年月 1969/03

昭和43年に金沢大学の先生方が金沢城(金沢大学の敷地になっていた)の発掘を行なった報告が論文として書かれている。

その中で、この用水の二ノ丸への出水口が、成巽閣所蔵の絵図に描かれていて、それの確認のために発掘したという報告が一章書かれている。

報告によると、絵図のとおり、極楽橋のたもとを1.4mくらい掘ったところに木管と石管の跡があり、木が腐って痕跡だけの穴が二つ残っていたようなことが書かれていた。報告された先生は、用水のほかの場所では石管ばかりでてきていたようで、木管の発見を重要視している。

また、用水を作った板屋兵四郎が、用水完成後に暗殺されたという話について、この出水管跡が2つあり、それは一方で問題があったときに他方で対処したのであり、メンテナンスしていたということだから、完成後も板屋兵四郎は生きていたのではないかと考えておられたようだ。 (論文の内容については、私の読み間違いがありそうなので、詳細は原論文を参照してください)

「金沢大学法学部論集 史学編 16」は石川県立図書館にあった。

3) 書籍 「加賀辰巳用水 : 辰巳ダム関係文化財等調査報告書」

タイトル:加賀辰巳用水 : 辰巳ダム関係文化財等調査報告書
著者:   辰巳ダム関係文化財等調査団 [編]
出版社:    辰巳ダム関係文化財等調査団
出版年: 1983
付録:
絵巻・絵図解説(1枚) 
1. 文化6年辰巳用水絵巻 
2. 天保5年辰巳用水長巻図 
3. 安政2年東岩取水口絵巻 
4. 明治9年辰巳養水路分間絵図(5枚)
5. 延宝年間金沢城下図 
6. 金沢城絵図建造物水路記入 
7. 明治10年辰巳用水全図写 
8. 昭和56年辰巳用水測量図(9枚) 
9. 犀川水系主要用水図 
10. 金沢の低地の地形区分図 
11. 金沢の河成段丘 金沢の地質図

この本は、タイトル通り辰巳用水について書かれた本で、ぶあつく重い。 付図の6の「金沢城絵図建造物水路記入 」が成巽閣所蔵の絵図の複製であり、用水がどう流れていたのかが描かれている。 今は、金沢城には暗渠が残っていないようで、書かれているあたりを歩いてみてもよくわからなかった。石垣の堀の水は辰巳用水を使っているという話なので、残っている部分もあるのかもしれない。

この本は、石川県立図書館にあった。

開架にある本は、付図がついておらず、最初読んだ時はこの絵図があることに気づかなかった。 書庫には同じ本が何セットかあり、絵図が揃っているものがあった。

(2023/5/25記)

兼六園 「沈砂池」のよみかた

兼六園では、辰巳用水の水をいったん「沈砂池」(小立野料金所の裏)に溜め、まさに砂を沈殿させてから上澄を園内に流すような仕組みになっている。

ここで「沈砂池」の読み方は「ちんさいけ」か「ちんさち」どっちなのかが気になってしかたがなかった。

ネットであれこれ調べたが、どっちなのかはっきりしない。半年くらいこれで悩んでいたのだが・・・

で、ついさっき、ふと一般的な名詞として「沈砂池」があればそれで解決だなと思い。辞書をひいたら出ていた。Wikipediaにもある。 わたしはなにを調べていたのだろう。

Wikipediaによると、読み方は「ちんさち」と「ちんしゃち」があげられている。

辞書は、「精選版 日本国語大辞典」(iOSアプリ Version 1.1.3、小学館)を調べた。 「沈砂池」ではなく「沈砂地」があって、その語釈に「水力発電所で、土砂を沈殿させるため、取水口の前に設ける人工の池」と書かれている。たぶん、「地」でなくて「池」の誤植のように思う。

一件落着

ちなみに、ネットでは、兼六園の公式のサイトでは、ざっと見たところ「沈砂池」にふりがなをふっていなかった。 ひとつだけふりがなを書いているサイトがみつかった。

https://kenrokuen.or.jp/sdgs_water/

ここにははっきりと「ちんさち」と書かれていた。ここは兼六園観光協会のサイトなので、かなり正しそうとは思ったが、兼六園の公式の情報ではないのでやや疑っていた。すっきりした。

補足 つまり、「沈砂池」はあの池固有の名前ではない。町で見かける「変圧器」に固有の名前がないのと同じ。 あの池には「霞が池」とか「瓢池」といった固有の名前はないということだろう。